中門
真ん中に柱があるのは何故か・・・聖徳太子の怨霊を寺域に閉じ込めるため?
五重塔
   本当はこれより1.5倍高かった?
  
1998年(平成10年)に、外観は7世紀後半の建築様式、内部は最新の耐火構造を持った宝蔵が完成した。

館名の通り、日本仏像界の至宝で法隆寺建立時から祀られている観音菩薩立像(百済観音)が中央に安置され、その東西の宝蔵には、夢違(ゆめたがえ)観音像や玉虫厨子など法隆寺が所有する数々の国宝・重要文化財が展示され、まさに息を呑む壮観さである。
● 大宝蔵院百済観音堂
● 奈良の世界遺産(附京都)
● 日本の世界遺産
 宗派

法隆寺は生駒郡斑鳩町にある。
法隆寺は、かっては真言宗であったが(その前の宗派は把握できなかった)、1882年に興福寺とともにこれから離れて、法相宗として独立し、薬師寺・興福寺と並んで法相宗(下記注)の本山となった。


法相宗:中国創始の仏教の一つでインドから帰国した玄奘(三蔵法師)の弟子、慈恩大師を開祖とする仏教。

しかし、第二次世界大戦後の1950年、法隆寺は法相宗からも離脱、聖徳太子縁の寺として「聖徳宗」を名乗った。

開祖は聖徳太子、総本山は法隆寺、門跡寺院中宮寺・法起寺などの寺が所属し、まさに聖徳太子の寺である。



参道から見た中門と五重塔(何れも国宝)
 法隆寺概略

法隆寺は、古くは斑鳩寺と呼ばれており、一般的に創建は飛鳥時代の607年頃とされている。異説があったり、7世紀半ばの焼失・再建時期についても論争があるが、いずれにしても7世紀建築で、唯一現存するものであることは間違いない。

●使用されている木材を年輪年代法によていつ伐採されたかを測定した結果、五重塔の心柱は594年に伐採された。
●近年の発掘調査によって、現存の法隆寺の以前に、もっと大規模な寺院があったことが確認され、法隆寺再建が通説となった。
●法隆寺に残る薬師如来像の光背銘や縁起文によれば、用命天皇が自分の病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを請願したが、その後に崩御、推古天皇と聖徳太子が用命天皇の遺願を継いで、推古15年(607年)に寺と本尊「薬師如来」と造られたのが法隆寺(斑鳩寺)である。(異説あり)
●現在の法隆寺は、五重塔・金堂を中心とする「西院伽藍」と「夢殿」を中心とした「東院伽藍」に分けられる。
●広さは187、000u(約57,000坪)、境内には飛鳥・奈良時代から鎌倉・室町時代に至る建造物が軒を連ね、数多くの仏像・工芸品を有する。
その数は国宝(建造物だけで19点)・重要文化財だけに限定しても約200件、点数にして約2,300点に及んでいる。
●世界的な仏教文化の宝庫として、1993年12月、日本で初めての世界文化遺産(法隆寺地域の仏教建築群・・・法起寺を含む )に登録された。
法隆寺には三つの枕詞がつく。
1.日本最古の木造建築 
2.聖徳太子ゆかりの寺
3.日本初の世界文化遺産
日本最古の五重塔(国宝)
●西院伽藍
両側に松並木と土産物屋・食事処が建ち並ぶ法隆寺への参道を通り抜け法隆寺総門の南大門をくぐると、前方に中門、左側背後に五重塔が聳え(一番上の写真)重厚な構えである。

西院伽藍は、南大門の背後の小高くなったところに位置する。向かって右に金堂(国宝)、左に五重塔(国宝)を配し、これらを回廊が囲む。
回廊の南正面に中門(ちゅうもん 国宝)が建ち、中門の左右から伸びた回廊(国宝)は北側に建つ大講堂(国宝)の左右に接して終わっている。回廊の途中、東に鐘楼(国宝)、西に経蔵(国宝)がある。
以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。

金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世の飛鳥時代のものではなく、7世紀後半頃の再建という説が有力になっている。

大講堂の両側につながる回廊(国宝・白鳳時代)は、創建当時は経蔵・鐘楼の前で終わっていた。

経蔵・鐘楼の手前の回廊の柱はエンタシスであるのに対し、講堂に近い方の柱は講堂再建時のもので円柱になっている。

鐘楼の反対側にある経堂(国宝 奈良時代)と大講堂の後にある上御堂(重文 鎌倉時代)を観てから
回廊を出ると鏡池の前に出る。
かってここに茶店があって、正岡子規が「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を読んだ。

鏡池の前に南北に細長い建物が3つ並んでいる。
左手手前が、聖霊院(国宝 鎌倉時代)、その奥が僧坊の東室(国宝 奈良時代)、右側が妻室(重文 平安時代))である。

寝殿造の聖霊院(国宝)の内部には、45歳の聖徳太子が仏教を講義する像と4人の侍者像(国宝 奈良・平安時代)が安置されている。この奥に僧坊の東室。
同じく僧坊の妻室(重文)。、
尚、西院伽藍を挟んで東側に、聖霊院と外観がそっくりの三経院(国宝 鎌倉時代)と僧坊の西室(鎌倉時代 国宝)、北西隅の小高い所に、八角円堂(国宝 鎌倉時代)が建ち、内部には2.4mの巨大な乾漆薬師如来像(国宝 奈良時代)が安置されている。
妻室の東側に高床式で中央部を吹き抜けにした2つの倉を前後に持つ珍しい構造の綱封蔵(国宝 奈良時代)、その奥に僧侶が食事を取る食堂(国宝 奈良時代)と吹き抜けの細殿(鎌倉時代)が軒を接している。

こうして出てくる建物が国宝ばかり、国宝不感症に陥ってしまうが、考えてみれば地震国、そして火に弱い木造建築が800年から1,400年の時を経て現存していることに驚嘆してしまう。

食堂の奥に、近年建設され、法隆寺を代表する仏像・工芸品を展示する大宝蔵院百済観音堂がある
● 東院伽藍
大宝蔵院を出て、東院に向かう。
両側に塔頭が並ぶ広い石畳の参道を進むと、東大門(国宝・奈良時代)があり、正面に宝珠のある夢殿が見えてくる。
聖徳太子の斑鳩宮跡に行信僧都によって建てられた夢殿(国宝 奈良時代)は東院伽藍の金堂に相当し、これを中心に、礼堂・絵殿・舎利殿があり、それらを回廊で廻らしている。

正面の南門(重文 室町時代)は不明門(あかずのもん)といわれ、いつも閉ざされていて、西門の四脚門(重文 鎌倉時代)が出入り口になっている。


夢殿は、二重の基壇の上に立つ八角円堂で、堂内中央に本尊である「救世観音像(木造観音菩薩立像)(国宝 飛鳥時代)」が安置されている。
楠木(くすのき)の一本造で、聖徳太子の等身像とも言われ、長く秘仏だった。
1884年(明治17年)、フェノロサ・岡倉天心が、僧達が慄く中、強引に安置されている厨子を開かせ、幾重にも巻かれた布を解いたという。
救世観音像
救世観音像は平安時代以降の像とは明らかに違い、細長い顔、杏仁形の目、大きな光背等から北魏様式の影響を受けていると言われている。

毎年、春と夏に特別公開が行われる。

他に上宮王院を創立した行信僧都坐像(国宝・奈良時代)、荒廃した東院の再興に尽くした道詮律師坐像(国宝 平安時代)等が安置されている。
法隆寺の国宝・重要文化財
法隆寺は国宝・重要文化財に指定されたものだけで約200件、点数にして2,300余点に及んでいる。
特筆すべきは南大門・金堂・五重塔・夢殿などをはじめとする国宝の建造物が19件もあることだ

(重要文化財を含めると55件)
次に続くのが東大寺8件・唐招提寺5件・興福寺4軒と奈良県勢が続き、知名度が高い寺社が多い京都府にあっては、最高で3件で大多数が1件に過ぎない。
この点からも法隆寺がいかに偉大な寺院であるかが容易に理解できる。

また、飛鳥・白鳳時代に遡る国宝の仏像・美術工芸品が20件もあることに驚く。
これらの中には、法隆寺(含中宮寺)の5代仏像(当管理者の造語)とも言うべき「百済観音(観音菩薩立像)・
救世観音(観音菩薩立像ー夢殿)・釈迦三尊(金堂本尊)・夢違観音(観音菩薩立像)・菩薩半跏像(伝如意輪観音ー中宮寺)」や「玉虫厨子」など、日本の至宝ともいうべき仏像や仏教工芸品が含まれる。
法隆寺 (斑鳩町)
法隆寺地域の仏教建造物 (文化遺産)
姫路城 (文化遺産)
屋久島 (自然遺産)
白神山地 (自然遺産)
古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)  (文化遺産)
白川郷・五箇山の合掌造り集落  (文化遺産)
原爆ドーム  (文化遺産)
厳島神社  (文化遺産)
古都奈良の文化財 (文化遺産)
日光の社寺 (文化遺産)
琉球王国のグスク及び関連遺産群  (文化遺産)
紀伊山地の霊場と参詣道 (文化遺産)
知床(自然遺産)
石見銀山遺跡とその文化的景観(文化遺産)
 世界遺産
世界遺産を主管するユネスコは、United Nations Educational,Scientific and Cultural Organizationの頭文字で、国際国際連合教育科学文化機関といい、本部はパリにある。
第二次世界大戦後、1946年に、人類が二度と戦争の惨禍を繰り返さないようにとの願いを込めて、各国政府が加盟する国際連合の専門機関として創設されたもので、世界の人びとが教育・科学・文化・コミュニケーションを通じて国際平和と人類の福祉の促進をすることにある。
2007年6月28日、ニュージーランドで開催された第31回世界遺産委員会で「石見銀山遺跡とその文化的景観」に登録されることが決定した。
これにより、日本は「自然遺産3件、文化遺産11件、合計14の世界遺産を有することになった。
(登録順)
奈良県は3件の世界文化遺産を有する。県単位の狭い地域自治体に3件を有する例は、世界を見回しても無いのではないか。それぞれにどこの寺社仏閣等が含まれているのか、一覧にしてみた。
世界文化遺産名称 寺社仏閣等
法隆寺地域の仏教建造物  法隆寺・法起寺
古都奈良の文化財 東大寺・興福寺・春日大社・春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡
紀伊山地の霊場と参詣道 吉野山・金峯山寺・大峰山寺・吉野水分神社・吉水神社・金峯神社
古都京都の文化財(参考) 賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)、
教王護国寺・清水寺・延暦寺・醍醐寺・仁和寺・平等院・宇治上神社、・高山寺・西芳寺・天龍寺・ 鹿苑寺・慈照寺・龍安寺 ・本願寺・二条城
 法隆寺の謎
法隆寺は、飛鳥時代・7世紀の創建という日本最古の建築で数多くの貴重な建造物・仏像などの文化財を有していること、日本建国最大の功労者であり庶民にも親しまれた聖徳太子ゆかりの寺であること、日本書紀や続日本紀などの記述の関わりなどから、数多くの謎が残り、それに伴って様々な論争や学説が提起されている。
これらには必ずしも学会の主流となっていない異説も多いが、その中で世間に大きな衝撃を与えた図書がある。

哲学者であり「梅原日本史」と呼ばれ、飛鳥時代の大和朝廷の権力闘争を徹底的に追求してきた梅原猛の著書「隠された十字架・法隆寺論」がそれである。

法隆寺にまつわる謎については、大正〜昭和期の仏教考古学者・石田茂作が法隆寺七不思議について提起した。
これに続いたのが梅原猛であり、この図書における基本的な論調は、「山背大兄以下の聖徳太子一族23人が斑鳩寺において無惨に殺され、子孫の絶えた聖徳太子は強大なたたり神となった。法隆寺は太子の怨霊封じの寺である。」という聖徳太子怨霊説にある。
ここで提起された新七不思議は次の通りだ。

1.日本書紀・続日本紀に法隆寺について火災のことは書いてあるのに何故創建時期の記述はないのか。(飛鳥寺・四天王寺・薬師寺などについては記載がある)。

2.法隆寺の財産目録である資財帳になぜ法隆寺の消失・再建についての記述がないのか。

3.中門は真ん中に柱を持っている奇妙な様式である。門とは人が通るものなのに、この門は柱を建てて通せん坊をしているのは何故か?

4.普通、金堂には一つの本尊があって左右に脇侍が2体あるが、なぜ法隆寺の金堂には「薬師」「釈迦」「阿弥陀」の三如来が安置されているのか。

5.資材帳には五重の塔の高さが16丈と報告されているが、実測では10.74丈(32.5m)であり、1.5倍も高いのは何故だろうか。

6.法隆寺には西院に加えてなぜ東院があるのだろうか。東院の中心にある夢殿はなぜ八角堂なのだろうか。ここに安置されていた救世観音像が明治時代にフェノロサが政府の命令で来るまで秘仏とされていたのは何故だろうか。

7.法隆寺の最も重要な祭である聖霊会(しょうりょうえ)で、何故、夢殿から聖徳太子像と舎利が一緒に取り出されて祭が執り行われるのだろうか。


これらの不思議の回答は、図書をお読み下さい。
 法隆寺の建造物
金堂(国宝)
回廊(国宝)
釈迦三尊像(国宝 飛鳥時代)
百済観音
玉虫厨子
元興寺
住 所 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1
電 話 0745−75−2555
アクセス JR関西本線法隆寺駅から徒歩20分又はバス「法隆寺門行き」で終点下車
JR王寺駅からバス「春日大社・奈良行き」で法隆寺前下車
近鉄奈良駅からバス「JR王寺駅行き」「法隆寺行き」で法隆寺前下車
(車の場合)
国道25号線沿いに大きな有料駐車場がある。
拝観時間 午前8時〜午後5時(2/22〜11/3)
午前8時〜午後4時半(11/4〜2/21)
拝観料金 一般1,000円/小学生500円

(西院伽藍内、大宝蔵院、東院伽藍内共通)

法隆寺HP http://www.horyuji.or.jp/index.htm