猿沢池から見る南円堂
猿沢池から見る五重塔は奈良の代表的な風景の一つだ。
日本最大の都市公園である奈良公園には1200頭の鹿(天然記念物)がいる。
興福寺境内でものんびりと草を食んでいる。
有名な阿修羅像(国宝))は天平6年(734年)の作。
国宝館
興福寺 (奈良市)
近鉄奈良駅の東改札口の階段を上がると、噴水の後に行基の像が建っているところが東向商店街の入口になっている。
ここを通り過ぎて目の前の大きな通り「登大路(国道369号線)」のゆるやかな坂道を数分進むと、右手に興福寺の境内が広がり、五重塔などの堂宇群が見えてくる。

興福寺は南都六宗の一つ、法相宗の大本山である。因みにもう一つの大本山が薬師寺だ。
六宗はこの他に華厳宗(本山:東大寺)、律宗(本山:西大寺)等がある。


また興福寺は、奈良時代・平安時代には南都四大寺、あるいは平城京及びその周辺にあって朝廷の保護を受けた南都七大寺(他に東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺)の一つであり、「古都奈良の文化財」として世界(文化)遺産にも登録されている。
室町時代に再建された東金堂(国宝)と五重塔(国宝)。後者は京都の東寺五重塔に次ぐ高さで50.8mある。
東金堂の木組み
興福寺は藤原氏の祖である藤原鎌足の婦人・鏡王女が夫の病気平癒を祈願して、669年に山背国(後の山城国 京都府)に建立した山階寺(やましなでら)を前身とする。

672年には藤原京に移り、さらに710年の平城京遷都に伴って現在の地に移され興福寺と名を改めると同時に、同じ藤原氏の氏神である春日大社と一体化し(春日社興福寺の名前も見られる)大いに栄えた。

寺は各地に荘園を有し、強力な僧兵保持して、比叡山延暦寺と並んで我が国最大の勢力を誇った。
しかし1180年、平重衡の南都焼き討ちで全伽藍を焼失、その後再建・焼失・再建が繰り返され、現在残る堂宇は鎌倉・室町時代から江戸時代にかけて再建されたものである。
鎌倉・室町の時代、幕府は大和に守護を置かず、興福寺がその任に当って来た。
南円堂(寛保元年・1741年再建・重文)は西国三十三ヶ所観音巡礼の九番札所。
北円堂(鎌倉時代再建・国宝)は、興福寺最古の建物。
三重塔(鎌倉時代再建・国宝)
東金堂の本尊は薬師如来像(重文)は室町時代の作だが脇侍の日光・月光菩薩像は白鳳時代のもの(何れも重文)。
ここには、文殊菩薩像・維摩居士像・四天王像・十二神将(すべて国宝)もある。
明治元年(1868年)の神仏分離令により、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こり、春日神社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。
子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われて樹木が植えられ、奈良公園の一部となってしまった。

現在の興福寺は、広大な奈良公園の西側にあり、南大門・中門などが再建されておらず、周囲を回廊や土塀で囲われているわけでもない。そのため境内がどこまでか定かではなく、四方八方、どこからでも入ることが出来る。

現存する建造物は、東金堂(国宝)・五重塔(国宝)・三重塔(国宝)・北円堂(国宝・南円堂(重文)・大湯屋(重文)などだ。

創建以来6回焼失し、その度に再建されてきた興福寺の中心たる中金堂は、最後に江戸時代の文政2年(1819年)に仮堂が建てられたが、材木が松であったために腐食が激しく、近年になって解体され、現在、再建に向けて準備が進められている。
興福寺にあって見逃せないのが食堂跡に建てられた「国宝館」だ。館名に相応しく、国宝の仏像等が所狭しと安置されている。
中央には高さ5m以上もある木造千手観音立像(鎌倉時代)。
もっともよく知られた阿修羅像を含む乾漆八部衆像(8躯)と乾漆十大弟子像(6躯)は天平時代のものだ。
これらの写実的な表情は、日本彫刻史に残る傑作と言われている。
この他に旧山田寺の鋳造仏頭、木造金剛力士像、木造法相六祖坐像、運慶の子・康弁による木造天灯鬼・龍灯鬼立像などの多くの国宝、それに重文の寺宝が多数置かれている。
住 所 奈良市登大路町48
電 話 0742−22−7755
アクセス 近鉄奈良駅から徒歩5分
駐車場 国宝館横に有り(30台程度)、1日1000円
入館料 境内無料、国宝館有料
世界文化遺産に登録された興福寺は、藤原氏の私寺としてかっては南都四大寺あるいは七大寺として栄えた。
ここが収蔵する写実的な阿修羅像は、仏像の最高傑作とも言われ、その人気は高い。