Part3
九州11泊温泉旅 ・・・愛犬アルも一緒に
この2日間は、観光が主、温泉が従の旅程。
初めての長崎そして陶器の里の観光は、想像していた以上に楽しかった。
7日目 2005.4.8
雲仙岳の南麓、地獄の噴煙が舞い上がる雲仙温泉から国道157号線で約15km、途中、何十ものヘアピンカーブを曲がり下ること30分、標高700mから海抜0m近くまで一気に下って穏やかな橘湾の海岸沿いにある小浜温泉に到着した。

町の至る所から勢いよく白煙が吹き上がり、道路脇の排水溝からも湯煙が吹き出している。真冬でもないのに、これだけ煙があちこちから舞い上がっているのには驚いた。
当初は護岸堤防の下に露天風呂がある「波の湯茜」に入浴する予定だったが、。あいにく配管工事のため臨時休業で入浴できず。
代わりに国道157号線沿いにある町営公衆浴場「浜の湯」で入浴した。
● 小浜温泉 浜の湯
小浜から橘湾(下記橘中佐に由来する)沿いの国道57号線(後251号線)で、約50km先の長崎市へ
観桜に20万にの人手がある橘神社(千々石町)に立ち寄る。日露戦争の際、首山堡南方高地山頂攻撃で戦死した橘中佐を祀る。
● 長崎観光
グラバー園から望むサファイア プリンセス号。とてつもなく大きかった。
平和公園からの浦上天主堂。
再び車に乗り市の中心部に向かう。
日本二十六聖人殉教地。キリシタン禁教令により26人が殉教した聖地。
「新地中華街」で遅い昼食。

それほど大きくない中華街だが、東西南北に「玄武・白虎・朱雀・青龍」の門が設けられ、朱色の店が軒を連ね、異国情緒たっぷりだ。

るるぶのガイドブックを片手に店を探し、食べたのは、定番のチャンポン(私)と皿うどん(家内)。
この後、予約した「長崎全日空ホテルグラバーヒル」に取り合えずチェックイン。
ここを選んだのは、グラバー園・大浦天主堂・オランダ坂など長崎の観光スポットが集中する南山手・東山手のど真ん中に位置しているためだった。
左手がホテル。電話で予約したが、こちらから言い出さないのに何故か格安の部屋をブック。料金は27uのツインで1室2人14,000円。なんども2人で1万4千円ですかと聞きなおした。(但し、割り当てられた部屋は裏側低層階、駐車場とゴチャゴチャしたビル街が見えるだけだった。
すぐに愛犬・アルとともに周辺を観光開始。
ホテルを出てすぐに発見したのはカステラの「(長崎)文明堂総本店」。
感動し「♪カステラ一番電話は2番♪」の古いコマーシャルを口ずさむ。しかし、ここはこのコマーシャルとは無関係なことが分かった。(こんな風に話題が反れるので原稿アップが遅れる・・反省)
明治33年(1900年)に長崎で中川安五郎が創業し、実弟の宮崎甚左衛門が東京に進出し、斬新な販売、広告によって全国的に知られる暖簾となった。
戦前には横浜・神戸などに進出したが、戦後、経営形態が変わり、現在は日本橋文明堂・銀座文明堂の他、横浜・浜松・神戸等の文明堂が独立した別会社となっている。

有名なコマーシャル「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」は、これらの会社の共同コマーシャルで1962年から放送している。
このコマーシャルのメロディは、ジャック・オッフェンバック(オッフェンバッハ)のオペレッタ「天国と地獄(邦題)」)の序曲。
テレビのコマーシャルに登場した熊のマリオネットは、オーストラリア人夫妻が操っていた。

ところが、この写真の長崎の「文明堂総本店」はこのコマーシャルに参加しておらず、九州地区で独自のコマーシャルを行っている。
● カステラの文明堂
文明堂総本店
矢印に従って「大浦天主堂」に向かう。
              国宝・大浦天主堂
元治元年(1865年)に建設された日本最古の木造協会。上掲の26人が殉教した西坂の地へ向かって建てられている。ここに来るまで、国宝とは知らなかった。
グラバー園
上下とも旧グラバー住宅。
旧三菱第2ドックハウス
安政5年(1858年)、横浜・函館とともに開港された長崎には、南山手・東山手にたくさんの洋館が建ち並んでいた。
それらを出来る限り保存しようと造られたのがグラバー園である。

園内には重要文化財である「旧グラーバー住宅」「旧リンガー住宅」「旧ホルト住宅」の他5軒の洋館が保存されている。

プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の原作は、1890年代初頭に長崎外国人居留地の東山手に住んでいたサラ・ジェニー・コレルの話に基づき弟、ジョン・ルーサー・ロングによって書かれたものである。

ここで
蝶々夫人で世界的オペラ歌手となった三浦環とコレルが会っている(三浦環の銅像がある)。

グラバー園は、港を見下ろす高台にある。

悲劇のヒロイン「蝶々夫人」がピンカートンの帰りを待ち、丘の上から海を見下ろしつつ、アリア「ある晴れた日に」を歌う姿を彷彿させる場所である。


この日、偶然に、三菱重工・長崎造船所で建設された巨大豪華客船サファイア プリンセス号(116,000トン)が入港・里帰りしていた

同型姉妹船のダイヤモンド プリンセス号が製造中に火災にあったのが記憶に新しい。
この火災のため、竣工順が逆転し、サファイア号が先に就航した。
昼前に長崎市内に到着。原爆が投下された地点に建てられた平和記念公園を最初に訪れた。
平和公園・平和祈念像前で.アルも平和祈願
徒歩10分ほどで到着。
教会前の聖母子像
石畳、急勾配のオランダ坂。市内は坂が多いため、散歩が苦しいので、飼い犬が少ないと地元の人に聞いた。
東山手洋風住宅群
孔子廟・中国歴代博物館
夕食はホテルのレストラン。その後、タクシーで夜の長崎を観光した。
眼鏡橋は、川面に上部の橋が写って丸くなるので眼鏡となる。よって、今夜は眼鏡橋でないと運転手さんから聞かされた。
標高333m、稲佐山山頂の展望所からの夜景・・・と言いたいが、当日は気象条件が悪く霞んでよく見えなかった。
そんな日のために壁にかっかた大きなパネルの前で運転手さんが撮影してくれた。
これにて長崎観光終了。充実した一日だった・
8日目 2005.4.9
今日は2つの温泉に立ち寄るが、前日に引き続き観光が主となる。
長崎市から長崎自動車道に乗って、嬉野ICで下り嬉野温泉に向かう。
● 嬉野温泉・大正屋 (佐賀県)
九州北部を代表する温泉地として知られているが、川沿いに大小の旅館が静かに立ち並び、思わぬ風情があった。

嬉野温泉は「肥前風土記」にも登場する歴史ある古湯であり、江戸時代は長崎街道の道筋にあるため、温泉のある宿場町として栄えたという。

温泉サイト仲間のプー助さんのご推薦で入浴した大正屋。
著名建築家・故吉村順三氏の設計による建物は、館内に入ると和と洋を品良く調和させたロビーとラウンジ。フロントで1000円を支払うと、男性スタッフが浴室の前まで案内してくれた。
さすが老舗、立ち寄り湯なのに丁寧な応対、細やかなサービスが行き届いている。
ガイドブックでよく紹介されている大浴場は、その端麗さにおいて、今までに入浴した旅館の中でトップクラスだ。
屋上とガラス張りの壁面が自動開閉でき、露天風呂の情緒も味わえる斬新なデザイン。薄いオレンジ色の石を敷きつめた浴室・浴場はとても広く、開放感タップリだった。
長大なリムジンは旅館のもの、個人のもの? 少しびびった。
初めて出会った浴室への円形自動ドア
嬉野温泉から国道34号線で30分ほど、嬉野温泉と並んで佐賀県を代表する武雄温泉に向かった。
● 武雄温泉・武雄温泉元湯蓬莱湯 (佐賀県)
長崎街道は小倉から長崎までの間に25の宿場が設けられた。
嬉野温泉と武雄温泉はその宿場町として栄えた。

1200年前の肥前国風土記に登場する武雄温泉は、江戸時代から湯治場として賑わい、湯宿や茶屋が立ち並んでいたという。
現在の武雄温泉は、20数軒の旅館・ホテルが、なだらかな蓬莱山の麓に点在している。
武雄温泉のシンボル「楼門」奥一帯が公衆浴場の「武雄温泉」。
明治8年に建てられた「元湯」をはじめ。、「蓬莱湯」、旅館・楼門亭鷺乃湯の大浴場・露天風呂、家族湯などなどさまざまな風呂に入浴できる。
武雄温泉で入浴してから、国道35線を利用して、陶器の里・有田に向かった。
● 有田(焼) (佐賀県)
佐賀県の南西部に位置する有田は、言うまでもなく日本の磁器発祥の地である。豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役・1596〜98年)の際、肥前・鍋島藩によって多くの陶工が連れて来られ、藩内各地に窯業地が発展した。その後、染付け赤絵の磁器が有田地区で確立し、その製品は伊万里港から全国に出荷された。
このため有田焼は伊万里焼とも呼ばれるようになった

国道35号線から旧街道に入ると、道の両側には江戸・明治・大正・昭和の各時代を代表する町屋が立ち並び、たくさんの窯元・陶磁器店が軒を連ねていた。
.この一帯は、1991年、国の重要伝統的建築物群保存地区に選定されている。

ここを通り過ぎて、「有田陶磁の里プラザ・有田焼卸団地」に向かった。食事処もある広い敷地には、窯元や陶磁器店が20軒以上が並び、前方にショーウインドー、奥に広いスペースを持って数多くの商品が陳列・販売されていた。

● 伊万里(焼) (佐賀県)
有田から国道を30分ほど、伊万里に向かう。
磁器特有の硬質で滑らかな肌合いの器は美しい。
国の重要伝統的建築物群保存地区
有田陶磁の里プラザ・有田焼卸団地
鍋島藩は、李朝系陶工の李参平ら多くの者を連れて来た。同時に、有田の泉山に白磁鉱が発見されて、日本ではじめて磁器焼造に成功した。
その製品は伊万里港から国内はもとより海外にまで出荷された。このため有田焼は伊万里焼とも呼ばれるようになった。

鍋島藩は、光沢の優れた白磁の肌に染付と赤・緑・黄の三色を基調として、美しい上絵を描く「色鍋島」の技法を守るため
、有田から現在の大川内山に御用窯を設けた。

ここは背後に標高500mを超え、奇岩・絶壁が連続する黒髪山が聳え、外の世界から隔絶するには絶好の環境にあり、関所を設けて陶工たちとの交流を厳しく制限した。

有田を観光してからやって来た大川内山の駐車場に車を停め、なだらかな坂道を上って行く。
黒髪山の麓、大川内山の坂道にく陶器店が建ち並ぶ
伊万里焼の窯元・陶器店が並ぶ大川内山を時間をかけて散策した。
但し、購入したのは小皿や蕎麦猪口など小物ばかり。
両側に30数軒の窯元の店が立ち並び、黒やこげ茶色をベースにした店内には伝統の「鍋島」の大皿から、現代風にアレンジしたマグカップや小皿まで、多種多様な磁器が並んでいた。

坂道の背後には、中国の山水画のような奇岩がそそりたち、秘窯の雰囲気がたっぷり、今回の九州旅行で最も印象に残った観光スポットだった。
有田・伊万里と周り、残るは唐津。国道202号線を走り唐津市に入り、その後、山里の狭い道を分け入って、「幸悦窯」を訪れた。(写真無し)
ここでメダカが書き込まれた目的の皿は残念ながら在庫なし、代わりに小皿を買い求め、日本三大松原「虹の松原」にある国民宿舎に向かった。
虹の松原日本三大松原のひとつに数えられる景勝地。5kmに及ぶ砂浜と松原は、約390年前、初代唐津藩主・寺沢志摩守が防風・防潮のため、海岸線の砂丘に黒松を植林したのが始まり
国民宿舎「虹の松原ホテル」は前に唐津湾、背後に虹の松原が続く風光明媚な海岸にある。国民宿舎としては、日本で初めて全室にバス・トイレを設けた。
温泉もないこの国民宿舎に宿泊することにしたのは、偏にアルを思いっきり海岸で自由にさせたかったから。
晩・朝とも小1時間、思う存分、砂浜で遊ばせた。
以後、国民宿舎内の写真無し。
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