施設名 : 殿様湯  (2007.4.15)
所在地 : 指宿(いぶすき)市 
温泉名 : 指宿温泉郷 二月田(にがつでん)温泉  
  二月田温泉 殿様湯 (鹿児島県)   
住 所 鹿児島指宿市西片1408
電 話 0993−22−2827
交通機関 九州自動車道鹿児島ICから指宿スカイラインを利用して約1時間
JR指宿枕崎線二月田駅から徒歩10分
施 設(日帰り) 休憩所、売店、駐車場10台程度可能
宿 泊 不可
泉 質 塩化物泉 52℃
適応症 不記載(理由は「温泉の基礎知識ー温泉の効能」参照)
日帰り入浴時間 午前7時〜午後9時
定休日 毎月第2第4金曜日
入浴料金 大人 250円
入浴施設 内湯男女各1
浴室備品 露天風呂にはシャンプー類無し
観光スポット 開聞岳・長崎鼻・池田湖・開門山麓自然公園・フラワーパーク鹿児島・長崎鼻パーキング公園砂むし会館砂楽・知覧特攻平和会館
お土産・食事 池田湖周辺・指宿温泉で。
近くの温泉 指宿温泉・成川温泉・山川温泉・川尻温泉・辻風丘温泉・開聞温泉、鰻温泉
指宿市HP
指宿観光協会HP

http://www.city.ibusuki.lg.jp/
http://www.ibusuki.or.jp/modules/xfsection/index.php?category=1

雑記帳 薩摩藩の示現流は初太刀での一撃必殺を旨としている。末期、新撰組局長・近藤勇をして「薩摩者と勝負する時には初太刀を外せ」と言わしめた恐ろしい剣法だったのだ。
データは変更されている可能性もあります。お出かけ前にご確認ください。
「いぶすき」という特色ある地名は、平安時代の和名抄では、「伊夫須岐」とあり、「湯豊宿」という当て字もあったようだ。

鹿児島県薩摩半島の最南端に位置する指宿市は、東は錦江湾を隔てて大隅半島と対峙し、南は東シナ海に望む風光明媚で観光資源に恵まれた市域を持つ。

中央部には九州一の大きさを誇り、体長が2mを超える大鰻が棲み、正体不明の生物(ネス湖のネッシーにもじってイッシーと呼ばれる)が目撃されている池田湖がある。

また、南西部には標高924mの開聞岳が、別名・薩摩富士と呼ばれる美しいコニーデ型の山容を見せ、すぐ側にはトロピカルムード漂う長崎鼻があって観光客を集めている。

さらに市域全体が霧島火山帯に属していて、世界的に珍しい地熱を利用した「砂蒸温泉」で知られる大型の温泉地・指宿温泉郷が湯煙を上げている。

薩摩富士の愛称で知られる開聞岳。(長崎鼻から撮影)
指宿温泉(郷)は、ハイビスカスや椰子の木が茂る南国ムードの温泉地だ。一口に指宿温泉と言っても範囲が広く、温泉街の中心である摺ヶ浜の他に、数キロの範囲に点在する湯之里・二月田・弥次ヶ浜・湯乃里等の温泉の総称だ。

明治以前は自然湧出する温泉だけを利用していたが、もともと地面を数メートル掘れば温泉が湧くので、昭和30年代から40年代にかけては農業や製塩にまで利用されていたそうだ。

現在の源泉数は800ヶ所と多く、湧出量は1日12万トンに達する。
宿は約40軒、年間観光客が300万人弱、宿泊客は91万人の大型温泉地だ(平成15年度)。

指宿温泉には、公衆浴場の数が多く、殿様湯・河原湯・玉利・弥次ヶ湯・村乃湯・市営元湯など、市営・公営・私営を含めると15軒以上ある。
また指宿と言えば、砂蒸しが有名で、摺ヶ浜にある「砂むし会館砂楽」で楽しめる。

二月田温泉は、指宿温泉の中心街から」国道226号線で鹿児島市に向かって3,4km北上、JR二月田駅付近から川に沿って西側に少し入った所にある。
元々は、薩摩藩27代目藩主である島津斉興(なりおき)が、天保2年(1831年)、別の所あった温泉別荘を、ここに移したもので、明治以降、公衆浴場として一般に開放された。
一見、民家のような白壁の浴舎。
玄関先に殿様湯と刻まれた石碑や代々の藩主名が書かれたボードが置かれている。
庭先にある飲泉所
温泉の神を祀る湯権現
かっての風呂跡。 源泉から4つの湯舟を巡って、温泉が適温になるように工夫されている。
輸入品と思われるタイル。この風呂には足軽以下は入浴できなかった。
薩摩藩代々の藩主の温泉別荘であったので、この名称がつく。
半分住宅半分田園の地域にあって、この建物が温泉施設かと疑ってしまう民家風の建物だ。
左手の民家の玄関が開けられていて、そこで入浴料金250円を支払ってから向かいの湯屋に入る。
簡素な脱衣室から風呂場に入るやいなや、あるものを探した。
あった、三分の一ほど湯に隠れていたが、○に十の字の島津藩の家紋が風呂の正面にだ。

九州の温泉サイト仲間プースケさんからこの風呂の写真を最初に見せていただいた瞬間、九州に行ったときは、ここには必ず浸かろうと思った。
歴史好きな私には、真田の六文銭と並んで馴染みある島津家の家紋が刻まれた風呂がとても魅力的だったからだ。

風呂は5,6人が一度には入れる大きさ、湯は薄く青味がかった塩化物泉、口に含むと弱い塩味と渋みが残った。
○に十の字の家紋を見ると小原節が頭に浮かんでくる。
♪見えた見えたよ、松原越しに、丸に十の字のオハラハー帆が見えた♪
風呂場全体が、温泉成分の付着で茶色くなっている。湯の温度はかなり高め、息を止めてそろそろと浸かった。
手前の浴槽で温度を下げてから風呂に注ぐのか?それとも掛け湯用?用途確認忘れた。
島津氏は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た名門守護大名である。

1587年(天正16年)に豊臣秀吉の九州征伐によって豊臣氏に服属、薩摩・大隅・日向(一部)に跨がる所領の支配を認められた。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくものの、早々に戦場から引きあげたことで徳川家康に本領を安堵され、島津義弘の三男・島津家久が当主と認められた。
その後、琉球まどを領有とし、最終的には加賀藩に次ぐ90万石(表高で実際は半分程度)の外様大大名となった。

時を経て、
1851年(嘉永4年)に第11代藩主となった島津斉彬の下で、洋式軍備や藩営工場の設立を推進し、幕末の雄として抬頭した。

斉彬の死後、弟・久光が実権を握り、公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争の敗北を経て、西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る。

幕末には尊皇攘夷を主張、その後長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降長く日本の政治を支配する薩摩閥を形成することとなる。


桜島を眼前に見る仙巌園(磯庭園)は、島津家の別邸だった。
殿様湯入浴後に鹿児島市内を観光し、ここにやって来た。
福岡在住で温泉サイト仲間のプースケさんから、○に十の字の島津家の家紋が彫られた風呂を見せられた瞬間、歴史好きで薩摩藩(正式には鹿児島藩)の歴史や小説を数多く読んだ私は、ここに入浴するぞ、と心に決めた。
支藩家紋
島津藩家紋