2008年2月23日朝刊各紙は神功皇后陵(五社神古墳ーごさしこふん)ついて大きく報道した。

なぜか? 
これは、日本考古学協会などが、長年、宮内庁に要望してきた陵墓の立ち入りが初めて認められ、16学会の代表が神功皇后陵に立ち入り、2時間半にわたって目視調査したためである。

このことは我が国の考古学において画期的な出来事であり、謎の多い古代史解明の第一歩となった。

宮内庁が管理する歴代天皇陵をはじめとする陵墓は全国で896ヶ所ある。

(天皇や皇后を葬った「陵」、それ以外の皇族を葬った「墓」、可能性がある「参考地」などの合計。古墳だけでなく火葬塚・石塔なども含まれる)。
中でも奈良時代以前の日本の古代国家成立過程を解明するカギを握る巨大な前方後円墳のほとんどが陵墓に指定され、立ち入り調査が認められてこなかった。

陵墓の指定は近代に入ってからであり、幕末から明治時代の初期に、古事記・日本書紀・延喜式などを参考に指定されたものだ。
しかし、今日では、陵墓の築造時期と被葬者の年代にずれがあるとして、考古学者から多くの疑問が投げかけられている。

古墳時代の天皇陵で、被葬者が宮内庁の見解どおりとして研究者の間で認められているのは、京都市の天智天皇陵と奈良県明日香村の天武・持統合蔡陵の2ヶ所だけである。

考古学上の論争で有名なのが継体天皇陵で、所在地に関して、宮内庁の見解と考古学者の通説が明確に分かれている(いずれも高槻市にある)。
宮内庁がこれまで陵墓の立ち入りを許さなかった理由は「静安と尊厳の保持」である。
これは当然の理由と言えるが、実はこれだけでないことが囁かれている。

一つは、陵墓の被葬者について、宮内庁と異なる見解が続出するのを恐れているというという見方である。

また、マスコミも学会も決して触れないが、陵墓の調査さらには発掘によって出て来る副葬品などから、皇室の万世一系が崩れたり、さらには皇室の先祖が渡来人という結果が導き出されてくる可能性も完璧には排除できないようだ。

今回の調査で、「一部団体が激しく抗議」と目立たない新聞の記事があった。
敢えて詳細には触れないが、これもなかなか難しい問題を内在している。
神功皇后陵 (奈良市)
平城宮跡の北に200mを超える7基の大型前方後円墳、6基の中、小型の古墳などを要する古墳群がある。これを佐紀・盾列(たたなみ)古墳群と称している。
2008年2月、この古墳群の北西の外れにある神功皇后陵において、日本の考古学における画期的な出来事が起こった。宮内庁が初めて陵墓の立ち入り調査を認めたのだ。
● 古代史解明への一歩、陵墓 初の立ち入り
● 神功(じんぐう)皇后陵
大和朝廷の考える上で、非常に重要な古墳群が近畿圏に4ヶ所ある。
大阪府の百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵等)・古市古墳群(応神天皇陵等)、奈良盆地南部の柳本・巻向古墳群(景行天皇陵・箸墓古墳等)、そして奈良盆地北部の佐紀・盾列古墳群である。

佐紀・盾列古墳群は平城宮の北部、東のウワナベ古墳から西の神功皇后陵まで、200mを超える7基の大型前方後円墳が並ぶ。

神功皇后陵の考古学上の名称は「五社神(ごさし)古墳」、全長275mの巨大古墳で、古墳時代前期のものと考えられている。

神功皇后は14代仲哀(ちゅうあい)天皇の妃である。
天皇はあの日本武尊(やまとたけるのみこと)の子とされているが、どうも天皇の「代」の数が少なくなるほど、その実在性に疑問符がついてくるようだ。

日本書紀によれば、天皇の死後、西暦201年から269年まで政事を執り、新羅をはじめ三韓征伐を行ったと言う男勝りの神功皇后だが、彼女も伝説上の人物とする学説が根強い。
仮に2人とも存在していなかったと言うことになれが、2人の間の子の応神天皇以下の子孫の存在も怪しくなる。

とにかく古代史に関しては学説が百花繚乱、図書を読めば読むほど分からなくなると言う厄介なものなのである。(因みに私も5,60冊の関連図書を読んでいる)。
そんなわけで考古学では「景行天皇陵」といった使い方はせず、「渋谷向山古墳」という風に古墳名を記述するのが一般的だ。

それはさておき、神功皇后陵は、近鉄京都線・奈良線・橿原線などがクロスする大和西大寺駅から京都線に乗って1つ目、平城駅で下車して、徒歩2〜3分の距離にある。
車で行く場合、途中の道がすれ違いが不可能な隘路なので、電車で行かれるか、西大寺の近鉄デパートの駐車場に車を止めて(1時間は無料ですが何か買い物をしてあげてください)、徒歩で10数分かけて行かれることをお薦めする。

因みに、私はそのデパートに買い物に行く際、県道の西側にあるこの神功皇后陵をいつも遠望しており、おなじみの陵墓である。
上記のような騒動があったので、車で15分の距離にある陵墓に出かけて見ることにした。(古代史に凝っていた10年以上前に一度訪れている)

デパートの駐車場に車を停めて、家内は買い物に、私は駐車場の前を走る道をまっすぐ北上、1kmほど歩いて神功皇后陵にやって来た。
木々が茂ってこんもりとした
古墳は巨大すぎて、御陵を一周しないとその全貌を把握できない。他の古墳と同様に、築造当時は石で葺き、埴輪を外周に配置していたであろう古墳だが、今ではただの緑多い丘にしか見えない。
近鉄京都線・平城駅から徒歩3分ほど、石畳の階段を上がると神功皇后陵が見えてくる。
佐紀・盾列古墳群の一番東側に位置するウワナベ古墳
巻向古墳群の箸墓古墳は、卑弥呼の墓という説もある。
濠が断続的に廻らされているが昔は周濠だったのだろう。
神功皇后陵正面。どこの御陵も同じように白砂・石塀・鉄門・鳥居・番小屋のセットになっている
御陵の東側に近鉄京都線が走る。
と言うことは電車からも御陵が見えることになる(京都方面から西大寺に向かって右手)
所在地 奈良市山陵(みささぎ)町
アクセス 近鉄京都線平城駅から徒歩3分
拝 観 自由